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1876年(明治9年)
0歳
5月15日、愛媛県松山市松前町に白石朝忠、レイの長男として生まれる。本名・朝武(つとむ)、幼名・一雄(かずお)。
1897年(明治12年)
母・レイと -
1886年(明治19年)
10歳
白石家から離籍、杉浦祐明(松山市松前町)の養子となる。
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1891年(明治24年)
15歳
- 5月
- 愛媛県松山尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)第二学年に入学。在学中に図画教師や上級生らと絵のグループ「扶桑会」を結成。
-
1892年(明治25年)
16歳
松山の四条派画家・松浦巌暉に師事する。
-
1897年(明治30年)
21歳
- 5月
- 上京。川端玉章に師事する。この頃「三棹」「芳章」の雅号を使う。
- 9月
- 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画選科に入学。日本画科第三期円山派の教授は川端玉章。
1891年(明治31年)
東京美術学校時代 -
1898年(明治31年)
22歳
この頃、黒田清輝の知遇を得、黒田からフランス語、洋画の指導を受ける。
1897-1901年
(明治30-34年)
《日本画科写生教室 五月三日》 -
1901年(明治34年)
25歳
- 4月
- 東京美術学校日本画選科卒業。卒業制作《孔雀》。
- 5月
- 黒田清輝がフランスから帰国。黒田が持ち帰った複製品、書籍、写真などを見るため、以後黒田家に足繁く通う。とりわけアール・ヌーヴォーの資料を鑑賞、模写し、この経験が図案家への転身を方向付ける。
- 7月頃
- 黒田家に、中澤弘光とともに寄寓。
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1902年(明治35年)
26歳
- 4月
- 黒田の推薦により大阪・三和印刷所図案部主任として赴任。
- 6月
- 饗庭篁村著『巣林子撰註』で、初の装丁を担当。
- 11月
- 大阪商船株式会社意匠図案嘱託を兼任。
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1904年(明治37年)
28歳
- 1月頃
- 大阪商船株式会社を辞し、上京。
- 4月
- 岩崎翠子(本名・翠。川越で代々庄屋をつとめた岩崎紀一の三女。兄は福沢諭吉の次女・房子の夫となる福沢桃介)と結婚。
- 4月
- 島根県第二中学教諭として浜田に赴任。この頃子規派の俳句に熱中し、「翡翠郎」の俳号を使う。
非水と翠子 -
1905年(明治38年)
29歳
- 11月
- 同校を辞任。上京して中央新聞社に入社。この頃から「非水」の雅号を使用するようになる。
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1907年(明治40年)
31歳
- 7月
- 富士山吉田口八合目に初めて電話が開通し、中央新聞社記者として開通祝賀会へ出席。登山風景をスケッチし、翌年金尾文淵堂から『富士山スケッチ』として刊行。
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1908年(明治41年)
32歳
- 2月
- 中央新聞社在籍のまま、三越呉服店夜間勤務嘱託を兼任。
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1909年(明治42年)
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1910年(明治43年)
34歳
- 1月
- 新PR誌『三越』刊行。『みつこしタイムス』と並行して、以後13年間両誌の表紙を担当。
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1911年(明治44年)
35歳
- 1月
- 三越呉服店図案部が意匠部から独立し、同部主任に就任。
- 5月
- 中央新聞社を退社。
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1912年(明治45年/
大正元年)36歳
- 3月
- 「書籍装幀雑誌表紙図案展覧会」を開催、自身の装丁・雑誌表紙作品約200点を出品。
- 6月
- 中澤弘光、山本森之助らと光風会を創立。
「書籍装幀雑誌表紙図案
展覧会」会場写真 -
1914年(大正3年)
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1915年(大正4年)
39歳
- 5月
- 『非水図按集 第一輯』(金尾文淵堂)出版。
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1916年(大正5年)
40歳
- 10月
- 『非水の図按』(星文館)出版。
『非水の図案』より -
1917年(大正6年)
41歳
- 10月
- 『非水花鳥図案集』(平安堂書店)出版。
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1918年(大正7年)
42歳
- 1月
- 三越日勤嘱託を辞し、「ひすい」にちなんで日・水の週2回勤務となる。
- 8月
- 『しぼりの図案』(平安堂書店)出版。
- 11月
- 『非水月刊図按』(金尾文淵堂)出版。
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1919年(大正8年)
43歳
- 4月
- 日本美術学校図案科講師に就任。
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1920年(大正9年)
44歳
- 3月
- 『非水百花譜』第1輯(春陽堂)出版(大正11年9月まで、全20輯刊行)。
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1921年(大正10年)
45歳
- 6月
- 『非水一般応用図案集』(平安堂)出版。
『非水一般応用図案集』より ラクトー株式会社(現・カルピス株式会社)の顧問に就任。
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1922年(大正11年)
《爽快美味滋強飲料カルピス》 -
1923年(大正12年)
47歳
- 9月
- ベルリンで関東大震災の報を受け、以後の予定を大幅に縮小。
1923年(大正12年)
パリ・ポルトドレアンにて -
1924年(大正13年)
48歳
- 1月
- 帰国。留学中には300種のポスターを収集。
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1925年(大正14年)
49歳
- 5月
- 日本美術学校図案科の教え子ら7人と、創作図案研究団体「七人社」を創立。
-
1926年(大正15年/
昭和元年)50歳
- 1月
- 『非水創作図案集』(文雅堂)出版。
『非水創作図案集』より -
1927年(昭和2年)
-
1929年(昭和4年)
53歳
- 6月
- 『非水百花譜』(春陽堂)再版(昭和9年1月まで、全20輯刊行)。
※関東大震災の際に初版本の版木は焼失したが、非水の手元に残されていた原画から版をおこし出版された。
《八重桜》
『非水百花譜』より- 10月
- 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)教授工芸科図案科長に就任。
-
1930年(昭和5年)
1936年(昭和11年)
(商品販売年)
《光》 -
1934年(昭和9年)
58歳
- 4月
- 帝国美術学校工芸図案科主任兼常任評議員に就任。
- 8月
- 27年間嘱託として勤めた三越を退社。
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1935年(昭和10年)
59歳
- 1月
- 学内紛争により帝国美術学校を辞任。
- 9月
- 多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)創立に参加。同校校長と図案科主任教授を兼任する。
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1936年(昭和11年)
60歳
- 5月
- 「杉浦非水図案生活三十年記念聯合展覧会」を開催、ポスター制作。
- 5月
- 多摩帝国美術学校図案科会機関誌『デセグノ』創刊。創刊号に非水の特集が組まれる
- 10月
- 七人社、構図社、東京広告美術家倶楽部、中央図案家集団など22団体が集結し、全日本商業美術連盟が設立され、委員長に就任。
- 12月
- 「杉浦非水氏図案生活30年記念祝賀会」開催。
『デセグノ』1 -
1941年(昭和16年)
65歳
日本図案家協会設立、会長に就任。
1940年(昭和15年)
東京美術館前
光風会搬入時 -
1947年(昭和22年)
71歳
- 3月
- 多摩造形芸術専門学校理事長に就任。
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1951年(昭和26年)
75歳
- 3月
- 多摩美術短期大学初代理事長に就任。
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1952年(昭和27年)
76歳
- 6月
- 『世界人物図案資料集成』(技報堂)出版。
- 8月
- 『世界植物図案資料集成』(技報堂)出版。
1952年(昭和27年)初版/
1957年(昭和32年)3版
『世界人物図案集成』 -
1953年(昭和28年)
77歳
- 1月
- 中澤弘光、跡見泰、三宅克己とともに光風会名誉会員となる。
- 2月
- 東京商業美術家協会会長となる。
- 3月
- 多摩美術大学理事長兼図案科主任教授となる。
- 11月
- 「杉浦非水図案生活50周年記念祝賀会」開催。
-
1955年(昭和30年)
79歳
- 5月
- 第11回日本芸術院恩賜賞受賞。
1955年(昭和30年)頃
自宅にて -
1956年(昭和31年)
80歳
- 10月
- 社団法人光風美術会理事となる。
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1958年(昭和33年)
82歳
紫綬褒章を受章。
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1960年(昭和35年)
84歳
2月16日、翠子死去。
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1965年(昭和40年)
1965年(昭和40年)
《雨》 -
1967年(昭和42年)
4月、「第52回光風会展」に遺作《雨》他が陳列される。